「続々・タイカレー」
人とは不思議な生きものである。
昨年夏、スープレシピの本を見て「こんなん作れたらおしゃれ!」という理由だけで実際に食べたことのないタイカレーをレシピ通りに作り、あまりに異国情緒あふれる匂いにまさかの作っている最中に気分を悪くし、また食べてみても「なんじゃこりゃ」とスプーンを置きついに完食できず、しかし次の日ごはんではなくナンと共に食べたところ「あれ、ちょっと美味しいかも」と思えた、タイカレー(参考:「タイカレー」「続・タイカレー」)。
もう二度と作ることはないだろう、と思っていたのだ。もしくは、外で本物を食べて味を知ってからまた作ってみよう(普通はそうですよね)、と。
しかし、どうしたことだろう。数日前から無償に、あのココナッツとスパイスの独特の香りが風の便りのように鼻腔に届くのだ。
人は懐かしむ生きものである。人は、思いを馳せる生きものである。
「あいつ、変な奴だったけど、けっこう良い奴だったよな……」
よくあるこのセリフの裏には、"I miss you"が隠されている。ふと思い出して懐かしみ、「また会いたい」と思うのである。
私はもう一度タイカレーに会いたい。いや、会ってみたい。会って、もう一度気持ちを確かめたい。結局私は、タイカレーが好きなの? 嫌いなの?
前回作ったときは材料集めにさえ戸惑ったが、今回はすばやくココナッツミルクとカレー粉を買い揃え、家にあったナス、ししとう、玉ねぎ、鶏肉で調理に取り掛かった。ナンプラーを鍋に入れ、ココナッツミルクの缶を開けると、あの懐かしい匂いが現実となった。前回度肝を抜かれたあの匂いである。私は緊張の面持ちで鍋をかきまぜ煮込んだ。前回はつい息を止めキッチンから逃げ出したが、今回は違う。私は確かめなければならない、自分の気持ちを……!
カレーはあっという間に完成した。鼻腔の門番は微笑んでいる。通行止めのアラートは鳴っていない。身体も異常なし。
これはいける……!
日本人には馴染みのない、緑と白をまぜた少しどろっとしたカレー。それと心強い援軍、白米。私は恐る恐るスープを口にした。
……うまい。
しかしまだわからない。前回も「うまい?」「いやまずい?」「いや……」を繰り返し、結論が出なかったのだ。私は次々とカレーを口に運んだ。
数十分後、私はデザートの杏仁豆腐をご機嫌に食べていた。約一年越しに、迷宮入りしかけた答えが出たのである。
私は、タイカレーが好きだ。
人は不思議な生きものである。そのとき確かに嫌悪感を覚えていたはずのものであっても、時が経ちふと思い出し、「あれ、やっぱり好きだったかも?」に変わることがあるのである。
しかし忘れてはならないのは、まだ外でタイカレーを食したことがないということだ。なので「タイカレーが好き」とはまだ公言してはいけないのかもしれない。あくまで、「あのスープレシピ本のタイカレー」が好きに過ぎないのである。
次のミッションは、外でタイカレーを食べることだ。つい無難なチキンカレーなどをオーダーしてしまう自分を抑え、目的を達成しなくてはならない。
杏仁豆腐を食べ終え、カラン、とスプーンを置く。次なる目標を見据え、挑戦意欲に燃えていた。
……それにしても。私は空になった杏仁豆腐の皿を見つめる。私は、杏仁豆腐の上にのっている「クコの実」を含めて杏仁豆腐が好きなのだと思っていた。だがしかし、久しぶりに食べたクコの実は、なんだか、あまり……?
人とは、不思議な生きものである。
「こんなときに銀歯がとれる」
昨晩、かき揚げを初めて作ってみた。水とまぜたてんぷら粉が余るのがもったいないと、具材を油のなかに投入したうえから回しがけたりしたのが悪かった。しかも、いつかかりかりになると無茶な期待をし、揚げすぎたのも悪かった。結果、歯にまとわりつく水飴がごとく、食感に不愉快な代物ができてしまった。
心を無にしながらもむもむと食べていると、不意に「固すぎる何か」が口のなかにいることに気づいた。いくら揚げすぎた水飴でも、固すぎである。石レベルである。
すぐさま口から吐き出すと、それは予想もしていない物だった。「銀歯」である。
「えっ」
自分でもわかるほど両目が飛び出る感覚を覚えた。つい先日歯科検診をしたばかりであるから、その銀歯がこの口のなかの唯一の存在で、左上奥出身なのはわかっている。舌をその地に向かわせると、やはりそこはすでに更地と化していた。
気持ちを落ち着け、水飴(かき揚げ)を中断し、つい先日検診に行ったばかりの歯医者の営業状況を調べた。ありがたいことに通常通り診察しているという。5年以上前に取りつけた銀歯が、よりによって自粛期間中に取れてしまうという空気の読めない歯を持つ人のために、病院を開けてくれているのだ。
先日検診に行ったとき、その銀歯の話もした記憶がある。実はすでに穴が開いており、劣化状態ではあった。
「見える部分は虫歯にはなっていないが、銀歯を外してみたら中がエライことになってる、ということもありますよ」
と先生がおっしゃるので、
「今のところ痛みはないのですが、それでもエライことになってる可能性ってありますか?」
と聞いたのだ。すると先生は、一切表情を変えず、
「いえ、そもそも痛みが生じることはないですね。なぜかというと、ここはもう神経が通ってないから」
とおっしゃった。
「あ……そうでしたね」と私はうつむき加減に返事をした。
嫌なことを思い出した。5年か6年ほど前、その歯は人生史上最悪の状態にまで悪化し、ついに神経を抜くという最悪の結末を遂げた歯だった。しかもそのとき私は節約命の学生だったため、費用を抑えるために麻酔なしで神経を抜いたのだ。考えられない。勝手に涙が出るほどの痛みさえ、こんなことになるまで放置していた罪と罰だと思って我慢したのだった。壮絶である。アホである。
ずっと忘れていたことを、その検診で再び思い出した。銀歯の方も、それがきっかけになって引退が頭をよぎってしまったのではないかと思う。
検診は結局、虫歯ゼロで終えた。それがむしろ恥ずかしい。せっかく何もなかったのにね、という哀れみがどこからともなく聴こえてくる。
どうかあの検診のときとは違う先生でありますように、と手を合わせながら診察台に座って待っていると、幸い願いは叶った。違う先生である。事情を説明すると、先生は椅子を倒して更地の部分をのぞいた。
「ちなみに、」先っぽが鏡になっているやつを、いろんな角度にしながら、先生が不意に言った。
「痛みは……あ、ないですよね。」
「……はい。」質問の途中で答えにたどり着いたのだろうな、と思いつつ、一応返事をした。ふたりの中で「だって神経がないから」という暗の声が密かに交わされたのだった。
私が口を大きく開けるのが苦手なばかりに、何度も型を取りなおしていただく羽目になったが(ちなみに美容院では、シャンプーで首の裏を洗ってもらうために首を何度も起こすのが苦手である。ぷるぷるしてしまう。)、なんとか終了した。
新人の銀歯が配属してくるのは、ゴールデンウィーク明けである。そのときは果たして自粛は解禁されているだろうか……と思いを馳せていたら、領収証を受け取らないまま踵を返したために、受付のお姉さんに呼びとめられるというポンコツぶりを発揮した。こんなときに銀歯が取れるような人間だから、仕方ないのである。
「パンケーキ」
ドラマの影響で無性にパンケーキが食べたくなった。なんのドラマかというと、日曜日の10時半ごろといううっかり見逃してしまう罠が仕掛けられた時間にやっていた、シロクロつけたいパンダのドラマである(とうとうタイトルが覚えられなかった……)。
ちなみに、今期のドラマで唯一最初から最後まで観たドラマである。ピンク頭ではない、演歌歌手のような名前の横浜流星くんと、「飼育員さん」「パンダー!」と言うあの独特な声が頭から離れない清野さん(下の名前がわからないです、苗字の漢字もあってるか自信ないです、あえて調べません)。このふたりが回を追うごとに好きになって、結局最後まで観てしまった。しかも罠を恐れて毎週録画にして。
……話を戻して、パンケーキである。ドラマでは毎話、横浜流星くん(full name)がパンケーキに魅惑のどろっとしたシロップを円を描くがごとく垂らす。それを観ていつも「おいしそう」「おいしそう」「おいしそう」と思っていたのだが、昨日最終回を迎えるにあたり、もうあのシーンは観られないのか、と思うにつけ急に焦り、「この情熱がある間に作って食べよう」と思い立った。
一時期、キウイ×バター×シロップのパンケーキにはまっていたことがあった。その時に気づいたのが、ぼてっとした分厚くてそのくせふわっふわの生地に、中世ヨーロッパ貴族のレースのドレスのように何重にも積まれた生クリームをのっけたやつをさんざん食べてきた私は、実は薄っぺらい一枚を数段重ねてバターとシロップと「あとなんか」程度のシンプルパンケーキの方が好きだということだった。
すでにそのことを知っている私は、外で食べようとは思わなかった。理想と合致するものをよそで探すほうが作るよりたいへん、と思ったからだ。台所に行き、さっさと小麦粉とBPと牛乳と卵と砂糖で適当な分量で作った。(ところで、やはりホットケーキミックスで作ると何か違うのだろうか……?小麦粉とBPで事足りるのであれば、これからもホットケーキミックスには手を出さずにおりたい……。)
できた。ただのおうちパンケーキが。コーヒーもいれて席につく。いやに風が強い。天気が良いので部屋のなかは一見おだやかだが、その実、天井が吹き飛ぶんじゃないかというくらい、四方八方から打ちつけるような音がする。
一口頬張る。「うん、これだ。?」走り抜けようとした「?」の正体をつかむため、すぐにもう一口食べる。「?」が何かわかった。「甘くない」である。もちろんバターとシロップで誤魔化せているゾーンもあるが、生地それ自体に甘さが全然ない。パンケーキというより、ナンを食べているかのようだ。
台所からさっき出番を終えたかに思えたシロップを再びひったくり、どろどろとかける。横浜流星くんの完璧なシロップがけシーンをふと思い出す。
しかしやはり、生地が甘くないとシロップもうまく本領を発揮できない。本人は精一杯やっているつもりだろうが、肝心の生地のほうがすっかり諦めているのだから。こんな時に限って頼りになるキウイも不在である。
こういうところなんだよな、とナイフとフォークを置いて思う。見た目はそれっぽくできているように見えて、その実、中身はどこかずれていて、抜けている。これはもう、それが如実に表れているではないか。
ため息をついてコーヒーを飲む。風がつよい。しかし強い。こんな気候のなか、わざわざ外にパンケーキを食べに行って、好きなやつじゃないのにコーヒーとセットで2,000円ちかく支払って、また風にもまれて帰ってくるよりはましか……と思いなおして、夕方を迎えるのだった。
写真うまくなりたい。
「からあげ」
月曜日。どうしても「からあげ」が食べたくなった。
一度そうなってしまうと大変である。通勤の朝、仕事の日中、帰宅の夜、ちょっと気を抜くとぽんっと頭にからあげ(withくし切りレモン)が浮かび、そのうえから「あーからあげ食べたい」という文字を置いてしまう。
しかし家で揚げ物はしない。スーパーで適当に買うのも嫌だ。こんなに食べたいのだから、絶対に美味しくなくては、揚げたてでなければ、自分がかわいそうである。
そこで思いついた。家で食べられないのであれば、外で食べるしかない。そうだ、花金で居酒屋でからあげでハイボール! そうしよう!
金曜日。仕事を早々にきりあげ、ハッピームード全開の夜の街に繰り出した。
さて、どの店にしようか。歩きながら一軒一軒、店の前に出ているメニューをのぞいてまわる。できれば一人静かにからあげを食べたい。なので人が大勢いて騒がしいお店は避けたい。とはいえカウンターだけの店はハードルが高い。そしてなんといっても、からあげ「も」ある店ではなく、からあげ「が」ある店がいい(伝わるだろうか)。
自分でも条件が厳しいとは思っていたが、やはりそんな自分に都合のいい店はなかなか見つからないものである。15軒ほど見てまわり、空腹はすでに通り超し、止まらない足は痛く、どんどん背筋がまがる。
もう、もういいです。おとなしくスーパーの惣菜を買って帰ります、あ、この際ケンタッキーでもいいか……と諦めかけたそのとき。
路地裏の人通りがすくない道に、ぽつんと一軒の明かりがついた店が。外に出ているメニューを見ると、焼き魚やおにぎり、味噌汁、漬物などのシンプルな和食と、数種類のお酒が置いてある店を発見(ところで、値段も添えられて全メニューが店の外に出ているというのは、初めて訪れる人間にとっては大変重要ですね。)そして、ありました、「からあげ」……!
何が良いって、数えるほどしかないメニューで、定食ではなく「からあげ」の存在感ありありの単品ごはんなところが◎!
店に入ると、三角巾をしたおばさまと、その後ろで厨房に立つ方たちの温かい「いらっしゃいませ」を浴び、壁を正面にして並んだカウンターに座る。客は2階にいて1階は誰もおらず、うるさくなく、静かすぎることもない、理想の環境である。
メニューを渡されると、見ることもなく「からあげ」と「ハイボール」、「ごはん」を注文し、店員さんが去ったあと一息ついた。
諦めなくてよかった(正確にいうと、諦めていたところに棚からぼたもちが降ってきた)。
ほどなくして、上品に白い紙の上に盛られたからあげ(withくし切りレモン)と縦長スマートなグラスに入ったハイボールと、つるつるほかほかの白いごはんが運ばれてきた。
食べる前にその幸せセットをながめ「生きててよかった」としみじみ思い、そっとレモンを手に取る。からあげにかけながら、ドラマ「カルテット」の「別府くんからあげは洗える?」のシーンを思い出す。
箸を取り、からあげをつまむ。ゆっくり一口かじると、レモンと肉汁と塩気がじゅわーっと広がる。正面が壁でよかった。抑えきれないにやにやを、抑えなくて済んで。
からあげ、ごはん、ハイボールをひたすら繰り返す。こんなに幸せな順番がありますでしょうか。ハイボールの最後の一口を飲み干し、こん、と置くと「生きててよかった」のあとに「大人でよかった、大人さいこう」と心の中の自分がうなずく。
店を後にし、幸せを噛みしめるために一駅分歩いて帰路についた。からあげに、あの店に、会社に、友人に、両親に、自分に、無闇矢鱈と「ありがとう」と握手してまわりたい気分であった。
「カツ丼」
カツ丼。気合の入った響きである。ほどよく粗熱の取れた米に、厚みのあるカツ、存在感のある、しゃき、とした、くし切りの玉ねぎと、とろとろで甘い出汁が香るたまごとじ。三つ葉がちょこんとのってかんぺき。カツ丼を引き立てる少し薄味の味噌汁と、箸休めのたくあんや高菜があれば、店内の喧騒や目の前をながれゆく時間など、まったく気にならないくらい、食べることに集中してしまう。
カツ丼は生きる活力をくれる。駄洒落ではなく。
しばしば小説やドラマでも、カツ丼はすばらしい役目を果たす。たとえば吉本ばななの「キッチン」。あったかくて黄色いカツ丼は、みかげと雄一を纏っていた湿った闇を晴らし、未来を与えた。または、ドラマ「カルテット」。てんこ盛りのがっつりカツ丼は、すずめちゃんの消せない傷跡や、断ち切り難い絆への不安を慰め、前進させた。
ところで、「カルテット」での、泣きながらカツ丼をむしゃむしゃ食べる姿が良い。「泣きながらご飯を食べたことがある人は、生きていけます」というまきさんの台詞が、さらに良い。そうなのだ。どうしたって堕ちてしまうとき、食べるという行為はすごくポジティブである。生きようと踏ん張る自分に安心すらする。そしてその時のそれが、カツ丼であったなら、怖いものなしである。
「うすぐらい部屋」
薄暗い部屋が好きだ。先日、ひとり自室で電気をつけずにいたら、「何で部屋真っ暗にしてるの」と母に聞かれて、自覚した。明かりのない部屋は、妙に落ち着くのである。
子供の頃は、むしろ少し苦手だったのだ。一瞬でもどこかしらの部屋に入るときはいつも電気をつけていたし、眠る時も照明を一段階落としてつけていた。
それが、中学生の或る日、洗面所の電気をたまたまつけずに入り、そのままなんとなくドアを閉めて、息を潜めてみたら、なんだろう、思春期特有の、「常に何かにみられてる意識」みたいなものが剥がされ、内なる光だけを感じて、深くて穏やかな呼吸ができた。そのとき、薄暗い部屋がもたらす効果を見出したのである。
大人になったいま、スマホやPCから常に光線を浴びている日常で、周りの薄暗い色を感じられる時間は本当に希少だ。
たとえば、天気の良い土曜日の朝、カーテンをすり抜けて差し込む陽の光だけが入った、薄青。昼間、太陽の光が包む薄い黄色。夕方、急に静かになって、夕焼けの強烈なオレンジと、夜の紺色。夜、眠る前の、開いた本の文字だけを照らす、読書灯の白いスポットライト。本を閉じて、灯りをぱちっと消し、幕を下ろした後の静けさと、息遣いと、漆黒の闇。
大げさに言うと、生命とか、地球とか、そういうものすら感じるのである。